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第100話 神仏を崇めぬ者II

    統計によると、無宗教と応える者が60%であるという。多分この答えの大半の者は、自らの宗教無知から自分は「無宗教主義者」と思い込んでいるに過ぎないと思う。

   得てして、自称文化人に多く、宗教を持たないことが文化であると思い込み、同時多発テロを、したり顔で評論したり、海外へ出ても公然と「無宗教」と答えて、本来の「無宗教者」を慌てさせる、恥かしい輩もいる。

   何故、斯くも宗教無知になったのか?

   仏教は多元的で、総括的で、寛容で、調和を主張する特性を持つが、どうも起因は前項で述べた、占領政策のなせる技に思える。

   つまり、教育基本法に編り込まれた占領政策の目的を、ご都合で解釈した歪んだ宗教教育(実は宗教教育は無かった)のせいで、宗教とりわけ仏教は教育の中で嫌われ、日本人の帰属意識は破壊されていった。

   その一番の因は、この100話で繰り返し述べた、より良い人間関係が培った先人の智慧を崩壊させ、知識教育のみに拘った結果がもたらしたマニュアル文化の弊害といえる。

   かつて日本人は、等しく正信を求め、神仏に恥じぬ生活を営む事を信条とし、正信を守っては喜び、破っては恐れ、罪科を悔いた。

   宗教の大事は畏敬である。

   「現代日本の何処か変?」は、結局政界も財界も役人も教育者も文化人の大半が、神仏を崇めぬ、悦びも畏れも知らぬ、身勝手な厚顔と無知の者だからである。

at 13:13, houwa-sugano, ちょっといい話

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第99話 神仏を崇めぬ者I

    現代の日本は、何処か変である。

   それが此処だと具体的に指摘できないほど、社会の全ての分野に及び、畢竟民族性の主張の「あいまい」さにその因が伺える。

   予てより、昭和20(1945)年8月15日が、日本人の心を失った日として注目をしているが、この日を堺にして「あいまい」さが、更に増長されたと思っている。

   今次の対戦が終結し、民主国家がアメリカの統治に依って設立、憲法が制定され、その憲法を順守させる為に教育基本法が整い、強烈な占領政策が打ち出された。

   「一億総懺悔」して自己の理性を失った全ての大人達は、最初は新体制に抵抗するが、生来のやじ馬性と寛容な協調性をくすぐられて懐柔され、まず自称文化人が簡単に自国への帰属意識を失いアメリカナイズされ、マスコミがそれに悪乗りして拍車をかけて、西洋文化に酔いしれ、見事に民族制を「あいまい」にしていった。

   占領政策が極めて老獪であったと断言できるのはこの点で、何故アメリカは自国の企業を日本に導入して、労力を駆り立て、利益を搾取する政策を執らなかったのか?

   民主的思想と眩しく華やかな異文化の、いわば軟派な政策で日本を籠絡したのか。

   占領政策の目的は、一途に日本の持つ民族性(軍国主義を産んだ、天皇制と血族重視の気味悪さ)の破壊にあったといえる。

   戦後57年、目的は達成されつつある。


※このお話は2002年に書かれたものです。

at 13:12, houwa-sugano, ちょっといい話

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第98話 現代葬儀事情V

    科学や文明の発達は、生活や習慣をより良く変えたが、時には残酷な様も呈する。

   臨終の有り様もそうで、死の瞬間は肉親や親族の励ましと慟哭の看取り場であったが、蘇生を重視する現代医学では、最後まで治療を施し、馬乗りになる人工呼吸や切開しての心臓マッサージなど、到底肉親には正視できない、別れが出現するに至った。

   当然、死の瞬間(握る手の温もりの変化を感じつつ)の別れも無く、無残な物言わぬ遺体との対面は、死の確認の場となった。

   仏教は死して尚、霊魂と肉体は一体とする立場で、臨終は生死観(しょうじかん)を確認する重要な場で、生命体と死体(物体)の別れ(物心二分)の場という、科学や医学の死とは根本的に論を異とする。

   この臨終時の変化が、死の概念を根底から覆し、葬儀の仏教的意義を崩壊させ、ただの事務的な「別れ」を生んだと言える。

   更に再言及すれば、葬祭業者は営利が目的で、仏教の教義は必要としない。

   「葬儀」なんて言い方は坊さんだけで、葬儀屋さんもとっくに姿を消してしまった。

   代わりに葬祭式典業が起業され、「メモリアル」式の、セレモニー(式典)を流行させ、昨今の「友人葬」「偲ぶ会」「お別れ会」を企画し、一方文化人と称する発信者が、これまた業者と組んで「自然葬」「散骨」「樹木葬」など、人間関係を否定する、寒々しい無宗教(?)式を演出し、儲かる葬儀の現代事情は止まることを知らない。

at 13:11, houwa-sugano, ちょっといい話

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第97話 現代葬儀事情IV

    親族や同朋や近隣が、相互互助の分かち合いの精神で営まれていた祭事は、業者と呼ばれる商売の専門家によって運営されるようになり、本来の姿を見えなくするほどにその意識や形式は、過激に変化を遂げた。

   元々業者は存在したが、彼等は慎ましく葬家の補佐として陰に徹し、急な取り込みを支え、檀家と寺の要望を見事に捌いた。

   しかし、現代の業者は、全くの葬儀そのものの仕組みを知らずに、儀式のカタカナ語「セレモニー」的発想で、ただのお別れ式(元からの業者も遅ればせながら変身をしたが)を商売に優先し、業界に侵入し始めた。

   このことは、寺院や葬家中心型の葬儀形態を、根本から覆し、業者指導型へと変身させ、その根底にあった大事な宗教心や仏教の法儀を無視する結果となった。

   一つの例は、遺体を安置する霊棺である。曾て自宅葬が執行されていた時は、部屋が狭い場合でも、柩は祭壇の後方に安置された。この場合は廻りに供花や供物をおくと、一旦設けた祭壇を解かないかぎり、遺体には対面はできないという欠点はあったが、何故祭壇を飾るかの意義があった。

   しかし、ホールの式次は葬儀終了後即夕べには他家の通夜執行のため、祭壇を解く必要を時間と合理性を重要視し取りやめ、祭壇の前に柩を安置するという不思議に変わった。

   同時に、医療の進歩が臨終の形態も変え、親族が遺体と対面する場が通夜葬儀の会場に変わり、霊棺の蓋に窓が空いた。

at 13:11, houwa-sugano, ちょっといい話

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