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第96話 現代葬儀事情III

    葬儀に、ご馳走を振舞うようになったのは、いつ頃からだろう。多分、住宅事情が変わって、一戸建てのマイホームを持てるようになった頃で、個人尊重(プライバシー)を理由に、家族も自分一人の部屋を持つ事が、当たり前になった時代であると推察する。

   曾ての日本の家屋は、生涯に何度かある大寄せの祭事を見越して、必ず部屋には個々でも、仕切りの襖や障子を外せば、見事に大部屋(そんなにも広いとはいえない)が出現し、大方の人寄せを捌いた。

   しかし、一人部屋の出現は、自分以外の他(家族)からの接触を拒否するため、簡易な仕切りは強固な壁に、何処からでも入れた引き戸は、鍵の掛かる無情な扉になった。

   畢竟、臨時の大部屋は拵えようにも、出来ない事情ができた。そこで大寄せの祭事は、町会会館やホールや催し場を借りて、執行することになった。時代を察知するプロには、素人は適わない。大進出が始まり、斎場やホールが建ち並び、忽ち業者主導となった。

   葬儀の経費であの飲み食いは馬鹿にならない。逆に業者は儲かる。

   思い出してください。以前、他家の葬儀のお悔やみで、飲み食いしましたか?

   遺族や親族はしても、会葬者はしません。

   葬儀では食事をしない、礼儀なのです。

   親族の食事は、取り込み中で支度がままならないから、近隣が互助で急拵えで有り合わせるのです。絶対、ご馳走なんて食べません。

at 13:10, houwa-sugano, ちょっといい話

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第95話 現代葬儀事情II

    現代の社会問題の要因は、全てとは言えないが、かなりの比重で本来の姿が「見えなくなった」ことにあると思っている。

  葬儀もそうで、「葬式仏教」という嘲笑も含めた、問題視される昨今のお寺を取り巻く風評も、葬儀の正しい姿が「見えなくなった」ためと思われる。

  その起因は、一に寺側の責任であるのは明白だが、言い訳で恐縮ながら、〔寺と密接でない、寺を信じえない、信仰を持たない〕側にも、いわゆる説明不足と疎遠がそうさせるのか、かなりの身勝手さがあるといえる。

  近ごろは、インターネットを検索すれば、たちどころに「弔問のマナー」「香典の金額」「挨拶の仕方」「費用の内訳」などに、Q&Aを加えたページは即座に開けるし、分厚い豪華な写真入り、イラスト有りの冠婚葬祭の本は、書店の書架をうずめている。

  葬祭マニュアルの氾濫で、どうも裏側には関連商品販売の魂胆が隠れているようで、本来の葬儀の意義を逸脱して、このとおりに実施したら、あれも必要これも要るで、商品カタログを見るようでもある。

  通夜の儀の、あの有り余るご馳走は何なのだろう。読経中でも、飲んだり食ったりはあたりまえ。昔から取り込み中の先様での飲食は、失礼な事と誰でも知っていた。

  通夜、葬儀、告別式、知っているようで知らない、本当が「見えなくなって」、みんなマニュアルの嘘に踊らされているのだ。

at 13:09, houwa-sugano, ちょっといい話

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第94話 現代葬儀事情I

    多分反論もあろうと思うが、葬儀についての事情を申し述べる。

   今世紀の半ばには、三人に一人は六十五才以上という。ということは、廻り中(私を含めて)年寄りだらけ、どんなに長生きしたって、極近にはみぃ〜んな彼方へ逝くわけで、葬祭業はここ何十年かは成長企業で、どんなに美辞麗句(保険の勧誘に似て)を重ねても、死という商品を扱う商売なのである。

   それが証拠に、今だに我が市では、投資に見合う確かな利益が計上できるからか、葬祭ホール(市営と併せて十ヶ所もあるのに)が新設されている。

   何宗にも対応する寺や、いいかげんな坊主(果たして経が読めるだけで坊主といえるのか?)が横行し、葬祭業者と組んで、まるで商品を扱うように、葬儀をこなしている。

   多分私のように、檀家や業者に対しても、自説は曲げないし、自分ではインフォムドコンセント(説明・理解・承諾)のつもりから、一々うるさく言う者は、頼んでも煩わしいだけで、嫌われるらしい。

   結局葬儀業者主導で日程は決まるし、要らぬ料理は残るし、大枚の経費はかかるしで、布施まで盗られたような気になるらしい。

   葬儀が終わっても、ほっとしている暇なく、関連の業者(仏具屋・石屋・香典返しの業者・墓地の斡旋)の電話やメールは頻繁で、お金で始まり終わるのが現代葬儀なのである。

   宗教は、消費者問題といわれる所以である。

at 17:54, houwa-sugano, ちょっといい話

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第93話 密教の色彩II

    密教の真理の教えは、「大日如来」によって八十億の菩薩に説かれ、その教えを受けて展開する代表の仏が、金胎四仏<()は胎蔵>で「阿閃如来(宝憧如来)、宝生如来(開敷華王如来)、阿彌陀如来(無量壽如来)、不空成就如来(天鼓雷音如来=釈迦)」である。

   金胎両部の四仏は、共に大日如来を「白」として頂き、順に「白、赤、黄、青、黒」、或いは「白、黄、赤、黒、青」の五色に真言密教の教義を顕して、様々な仏菩薩に関連し、影響し合いながら展開し、宇宙を凝縮した大原「理」と、大いなる生命を生き抜くための生活の「智」慧が二面に構成されて、二つが重なり合い、或いは不二(一体)となり、宇宙のあるがままを肯定し、極彩色の世界にあますことなく表現されて、つつみこむ。

   四仏は又、順に「東西南北」、「朝夕昼夜」、「春夏秋冬」、「少青壮老」の自然の変化と、現象の動いていく原理を説いて、宇宙の生命の動き「大いなる生命」の躍動を顕し、それぞれに「赤」は朝日の昇る様、「黄」は昼間の明るい太陽、「青」は夕方の空を、「黒」は太陽の沈んだ夜を顕し、修行の過程を説くという。

   真言宗の寺の本堂中心には、五色の糸(壇線)の張られた大壇が安置され、壇の中心と四隅に必ず、大日如来と四仏が鮮やかな五色の蓮花となって、荘厳されている。

   密教の「極彩色の世界」は、総てを肯定し、科学をものみこむ、自然色なのである。


◎参考資料(92〜93話)「両部曼荼羅入門・図録」吉本都観   著

at 17:53, houwa-sugano, ちょっといい話

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