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第66話 密教の仏[1] 不動明王ii

 不動明王は、初七日忌の本尊さまである。亡くなった日を入れて、七日目に修する。

 近年、何故か葬儀より大事で、当然の如く「住職、初七日は?」と、葬儀直後や葬儀中に修するように頼まれるが、当方が「?」である。

 四十九日間は「中陰」とか「中有」といい、仏界へ摂入するための準備と修行の期間であるが、七日ごとの法要は遺族の悲嘆を和らげる手助けをする日々でもある。親族や友人が霊前へ赴き、励まし、辛さを克服する、分かち合いの重要な一刻と思いたい。

 最初の七日目の不動明王は、大日如来の命により、衆生を教化済度するために遣わされた使者である。その身は「教令輪身(きょうりょうりんしん)」といわれ、「済度し難がたい衆生にたいして、忿怒の姿で折伏して尊法させる」、恐ろしい怒りの姿で、諸々の魔障を彼方へ退けて降伏させ、妄念を離れて、心を集中させ、静かな正思に安定させる。

 更に左右の剣と索(なわ)の智慧と慈悲で、悟りに向かわない者の煩悩を断ち切り、垂れた髪(おさげ)で救い上げ、頭上の蓮華に載せて、誰でもが具備している仏の資質を見いださせて、輝く大日如来を自覚させる。

 即ち初七日は、それぞれが生前において、「身・口・意」の三業によって、知らずに犯した所の三毒や十の戒めを、不動明王の忿怒と火炎で、焼き尽くし、併せて仏の慈悲と知恵を活写させて仏果を得て、本来具備された仏「大日如来」を確認する日である。

at 11:26, houwa-sugano, ちょっといい話

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第65話 密教の仏[1] 不動明王

 密教の身近な13の仏(初7日から49日忌の七仏と百ヶ日忌から33回忌に至る六仏)を本や辞書の受け売りで紹介する。

 因に、一般的に「ほとけ」と呼ばれるものには、「仏=如来」「菩薩」「天=毘沙門や帝釈など」や、仏弟子や祖師などがあり、変化身や忿怒身の、仏教の教えを守る神々「明王」も、礼拝の対象として崇められた。

 不動明王は原語を直訳すれば「不動威怒明王(ふどういぬみょうおう)」という。

 常に一切動かぬ、揺るぎない堅い悟りへの決意(不動)と、威力あふれる徳と激しい怒りの相(威怒)をもち、ダラニ(明=みょう)を唱えると、たちどころに霊験ご現れるという仏さま(明王)という義であろう。

 名前の示すとおり、怒りの姿を表した忿怒身で、人間のもつ怒りや憎しみの感情を、無理に押さえ付けずオープンにして肯定し、社会悪や邪まな心を正義の怒りへと転化して、どんな人もすべて、正道へ導いてくれる、限りない慈悲心の現れの姿とされる。

 燃える炎は怒りと煩悩を焼尽くす智慧を、岩盤は不動。童形と七つに結んだ髻(もとどり)は、忠実な使者の奉仕の七代に亘る姿、左肩のおさげ髪と頂上の蓮華は、この髪を掴めば忽ちに蓮華座(菩薩)にたどり、右の剣は智慧、左の索(さく)は慈悲。額のしわは生死を憂い悲しみ、左眼を閉じて邪道を隠し、上下の牙は上昇思考と救済を表すという。

 大日如来の慈悲心を、具現した姿と言える。

at 11:24, houwa-sugano, ちょっといい話

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第64話 成仏への道VI

 真言密教における成仏は、「速疾」にあると再三述べたが、大乗仏教においては密教以外の諸教も本来仏の資質を内在している「本覚思想」に立脚するので、同じように速やかに成仏に至るはずであるが、至らないのは、何故なのだろうか。

 実は今一度確認すれば、真言密教では、大日如来は全ての存在を宇宙的宏大さで包み込み、凡夫である我々もそのまま(煩悩を抱えたまま)の姿で同一体となり、まさしく大日如来の姿を変えた存在(法身=ほっしん)であると説くのである。即ち、この身は大日如来であり、他の何者でも無いと確認できたとき、その刹那に成仏するのである。

 ところが密教以外の諸教においては、本来内在する菩薩が大願をおこし、気の遠くなる修行と時間の果てに成就し、その報いとして成仏(報身=ほうじん)したり、衆生を救済するには、その求めというか状況に対応するため、成仏の過程でその者の内在する機根(きこん=能力や性質)に応じて様々な姿に身を変えて示現(応身=おうじん)して成仏するのである。このため煩悩を滅却した極めて高い透明な境地と、長い修行の積み重ねの様々な過程求めれられ、結果で成仏に至るため、時間的には速疾は無いのである。

 ましてや、凡夫では菩薩と同じ修行や時間を経ても、成仏に至る保証もない。

 ここに真言密教の法身大日如来という「速疾」する仏陀観の、偉大さと特質がある。

at 11:23, houwa-sugano, ちょっといい話

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第63話 成仏への道V

 真実の自身の心を知る「如実知自心」を体解し、「速疾」に成仏するには、「身・口・意」の三業を研ぎ澄まし、「三密」に浄化する努力をしなければならない。

 そこで身体と言葉と心の働きを、自らよい方向へ導くために、普段から心掛けて、更に十の善行を実践して、心身を堅く決定しなければならない。

 『十善』といわれ、身体をもって行う善行に「生きるものの命をうばわない。他の物を盗まない。異性を求める欲望を正し、淫らな情欲に耽らない。」、言葉の善行には「嘘をつかない。おべんちゃらや甘言などの飾り言葉を慎む。悪口を言わない。都合に合わせて二枚舌を使わない。」、こころでの善行に「自己中心的で貪らず吝嗇をしない。イライラしてむやみに怒ったり瞋ったりしない。物事を正視して、正しく理解する。」がある。

 このことは、行住坐臥日常の生活そのままで、日々の生き様の全ての働きが、どこまでで善行に極まるのか、結果も無く、難解で、延いては真実の自心を知ることにある。

 しかし、この難しそうな働きも、大日如来の働きそのもので、永遠不変の真理の本体であり、法身といわれる真仏だから、日常の生きざまの「身・口・意」の働きをより完成すること即ち、大日如来の身を変えた姿と確信すれば、「速疾」に成仏することになる。

 だからこそ「身・口・意」は、三密と成り得て「速疾」に成仏に至ると言える。

at 11:20, houwa-sugano, ちょっといい話

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第62話 成仏への道IV

 真言密教では、「身・口・意」の三業をいかに研ぎ澄ませて「三密」と成りえて、成仏に至るのか。いまだ菩薩として目覚めぬ者は、いかにして「速疾」に悟りに至るのか。

 その秘訣は、自分の心を知ることだと、明解する。

 即ち真言宗の根本の経典である大日経には、「如実知自心(あるがままの我が心を知るべし)」が説かれ、鏡のように我が心を自在に映しだしたときこそ、自ずから「三密」に到達し、「速疾」に成仏すると解き明かす。

 では、我がこころを知る手段は何か?

 それは、三毒を焼き盡くすことだと説く。三毒とは「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」この三つの心の動きをいい『自分の物は舌を出すのも嫌という吝ん坊で、自分だけに利益が集まり貪り欲っする自己中心的なこと。ささいな事でイライラして、赤くなったり青筋を立てて怒り瞋ること。正しい事の見極めもできず、つまらぬことにくよくよして、思い悩む愚かなこと。』この三つを指す。

 何方からの受け売りの譬えで恐縮だが、それはナベの中の澄んだ水に顔を映すのと似て、もし水がドロドロに濁っていたり、グラグラ煮えたっていたり、塵芥や腐った葉で覆われていたら、顔を映すことができない。

 心も貪ったり、瞋ったり、愚かに悩んだりして毒で汚れていると、真実の我が心を知ることは不可能で、そこで「三毒」を、悉く焼き盡くす事が先決だと明言するのである。

at 11:20, houwa-sugano, ちょっといい話

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