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第61話 成仏への道III

 密教おける成仏とは、「身・口・意」が如何に研ぎ澄まされて『密』となりえるか、一途にここに拘わってくる。

 この「身・口・意」の三つは、身体の働き、言葉の働き、心の働きをいうが、この三つの働きの範囲は我々の生活の全てと云ってよい。

 これを我々凡夫の場合は「三業」といい、仏の場合は「三密」という。即ち、三業は我々凡夫にとってのものだけではなく、仏が我々を救済する場合も全く同じ働きで、身・口・意は「密」の範囲であるという。

 そこで凡夫は三業を「密」に到達させ、三密で「速疾」に成仏せねばならない。

それには、如来と我と法界が持つ、三つの扶けというか護りと云うべきか、所謂計り知れない力に因って、三業を三密として昇華させ、まるで帝釈天の首飾りのように重なり、網のように彩なして光り輝くように働き合えば、「速疾」に成仏するというのである。

 これは凡夫の世界ではありえない。

 まさしく菩薩の境地である。

 法身大日如来は、他化自在天の大摩尼殿の宮中で、菩薩に説法して救済するという。

そこは様々な鈴や鐸や絹の旗や幡が、そよ風に揺すられ触れ合って微妙な音楽を奏で、珠や環もキラキラ輝き、満月や三日月の形の鏡も照り映えて、吉祥を称嘆しているという。

 密教の成仏は、凡夫が悟るのではなく、自分が菩薩だと目覚めた者が悟るから「速疾」なのである。

at 11:18, houwa-sugano, ちょっといい話

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第60話 成仏への道II

 私たちは、全く自覚は無いが、本来誰でも仏に成る資質というか、まだ磨かれない原石と云えばよいか、仏の核或いは種子が備わっていて、凡夫であるために気が付かずにいるだけである。だから自覚さえすれば、成仏することは可能である。このような考え方を、「如来思想」とか「本覚思想」という。

 この考え方は、身を収め戒律を守りとおし、いつ至るとも知れない、菩薩道への長く険しい道を、釈尊への憧憬と成仏への無心な修行を修めて、始めて実現が可能に成るという気の遠くなるような過程とは違い、自分が仏であることを自覚し、目覚めれば成仏が叶うという、きわめて時間的にも短縮された、誰でもが平等に成仏を得る機会があるという身近なものへと発祥した。

 更に密教は、早さは瞬時というべき程に究極され、その身そのままが菩薩であり、発心すれば「速疾」に菩提を得て即身に成仏するというのである。即ち本尊大日如来は、遠くの彼方に存在するものではなく、貴方自身が大日如来なのだと説くからで、全ての存在は大宇宙の中の小宇宙のごとく、全てが大日如来に融合し包括される。そのこと即ち成仏だと説くのが密教である。

 然れば、密教は善人だろうが悪人だろうが、平等に菩提を得るのだろうか?否である。

 密教の扉を開く鍵は、その「身・口・意」が如何に研ぎ澄まされ『密』と成りえたか、そこにこそ「速疾」があるのである。

at 11:16, houwa-sugano, ちょっといい話

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第59話 成仏への道

 先ず「真言宗」「密教」「曼荼羅」と三つ並べたのは、真言宗の特色というか教義の要点を、理解して戴きたいからである。

 又「顕教」という表記があるが、これは密教(日本では真言宗・天台宗)以外の宗派や教義を指す言葉だが、「顕教」一語で必ずしも全ての宗派や教義を表せないし、密教の反対語でもなく、密教と区別するために便宜上使用されたようである。筆者をこれに習う。

 さて、密教と顕教では、同じ仏教なのに、悟りに至る過程は必ずしも一致はしない。

この辺りが密教たる所以で、前述の三要点を思い出しつつ、お読み願いたい。

 仏教は、釈尊によって開教され、インドよりシルクロードを経て東漸され、中国、朝鮮、日本へと三国伝統して帰結するが、教えは学問として高僧達に受け継がれ、時代性や教義の理解の仕方で思想体系も確立し、小乗から大乗、次いで密教へと仏陀観も大らかに拡がり、成仏思想も変化し、成仏への高踏な存在の覚者釈尊はもとより、様々な仏の出現により、より身近な成仏課程が発祥した。

 凡夫は自覚が無いが、本来仏陀と同質であり、誰でも仏菩薩の種子を具備しているので、迷いを滅却して、究めれば成仏に至る。

 更に密教では、菩薩道の遠い道程も短縮され、身と口と心を活写すれば、「速疾に」大日如来と同体となり、煩悩多きこの身のままで、成仏に到達すると云うのである。

at 11:15, houwa-sugano, ちょっといい話

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第58話 曼荼羅II

 マンダラは、密教辞典によると「輪円具足・極無比味・無過上味・聚集・発生・壇・道場」とされ、欠けることの無い、すべてに円満な成就された境地(輪円具足)をいい、或いは五味(乳・酪・生酥・熟酥・醍醐)の内の醍醐で、比較する味がない最も上味のもの(極無比味・無過上味)であり、菩提を得るための不可欠な要素である計り知れない三密(身・口・意)の発生するところであり、全ての仏果の徳を集めた<聚集>もの、又は悟りを得、全てを成就する修業の場所(壇・道場)でもあるとされている。

 即ち、全ての自然の法則の根源として存在し、その姿も宏大にして、欠けることの無い円満なものであり、他に比較すべきものが無い大宇宙そのものでもあり、密教では大日如来そのものの姿の具現である。

 四種曼荼羅があり、又辞書に頼るが、機会をみて真言宗のお寺で、実物を参拝願いたい。


大曼荼羅 … 様々な色彩により、諸尊を彩画し、形像にして仏徳を表して大画面に構成したもの

三味耶曼荼羅 … 諸尊の持ち物や三味耶形(三形と略)で仏徳を表したもの

法(種字)曼荼羅 … 仏菩薩の徳を表示した梵字の一字(種字=一字で仏の教えや徳をもって表したもの)で描かれたもの

羯磨曼荼羅 … 木造、鋳造、朔造などで立体的に構成されたもの

at 11:13, houwa-sugano, ちょっといい話

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