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第57話 曼荼羅(マンダラ)

 便宜上カタカナでマンダラと表記する。

 マンダラは、密教の中でも、殊に真言密教では重要な法具で、弘法大師も遣唐使として長安(西安市)で受法されて後、日本に帰国し、唐より持ち帰ったお経や密教法具を朝廷に報告する文「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」の中で、『(略)密蔵深玄(みつぞうしんげん)にして翰墨(かんぼく)に載(の)せがたし。さらに図画を仮りて悟らざるに開示(かいじ)す。』と述べる。

 即ち、「密教の教えは、深遠で玄妙な奥義であるので、なかなか文章には表しにくい。そこで絵画の手法をもちいて、絵によって、まだ悟りに達しないものに、分かりやすく解き明かす。」と言うことで、マンダラはまさしく「図画を仮りて」真言密教の教えを表したものである。 

 マンダラは両界と言い、真言宗の重要経典の「大日経」を所依(よりどころ)とする胎蔵曼荼羅と、「金剛頂経」を所依とする金剛界曼荼羅があり、どちらも真ん中に中尊大日如来が描かれ、法身である大日如来が変化応現する様々な諸仏諸菩薩・明王・天部が幾何学的に、しかも華麗に配置されている。

 マンダラには、「大曼荼羅」「三味耶曼荼羅」「法(種字)曼荼羅」「羯磨(かつま)曼荼羅」の四種曼荼羅がある。

 巷間、「・・・曼荼羅」というが、本来は四種以外はありえないものです。

at 11:13, houwa-sugano, ちょっといい話

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第56話 密教

 真言宗は密教であることは承知しているが、なぜ密教か、密教とは何かと問われると、にわかに説明できる者は極めて少ない。

 教学的で申し訳ないが、仏教はこの世に実在されたシッダルダ(釈迦)がお悟りを開いて覚者となり釈尊と崇められ、ついには仏身として礼拝され、そのお説きになられた不滅の法も法身(ほっしん)として教主に成り、仏陀観として完成し、諸宗派の基本的仏身観として定着する。

 しかし密教では、極めて宇宙的スケールで大日如来が存在し、自らが教主となって説法する。すなわち法身大日如来がさまざまな姿に身を変じ、ある時は本来のお姿で、又ある時は菩薩に変化して説法し、時には凡夫や教化するものと同等の姿に自在に変化して、一切のものすべてに説法し救済する。

 説明の為に、「鶴の恩返し」の話をする。

 雪の夜傷ついた鶴が男に助けられ、その受けた心情に絆され、妻(お通)となって夫を助け、決して覗かぬことを誓わせて、自分の(本当は鶴)羽をもって、機を織り見事な反物を仕上げる。夫はその収入で幸せを得るが、ある日禁を破り、妻が本当はご鶴である「秘密」を知り、短い幸福を失う物語である。

 この鶴が未だ達せぬ者には本来の姿を見せない、教化を受けるものに相応した姿(お通)に変化して説法する大日如来である。

 法身は、理解する者に変化応現する。

理解できぬ者には、「秘」密教である訳です。

at 11:12, houwa-sugano, ちょっといい話

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第55話 真言宗II

 真言宗は「密教」である。

 密教は、瓶に水を溢れるばかりに満たし、その水を一滴も余す事なく他の瓶に移すように法を伝える事を本義とする。

 奥義や法則を、師から弟子へ余す事なく伝えることを相承(そうじょう)というが、真言宗の伝法灌頂(でんぼうかんじょう)は、現在も尚、法を伝える最高儀式として、極めて秘密裡に、嫡々に伝承され、受法した者は皆伝し、阿闍梨と尊称される。

 それで「密教」というのだが、弘法大師空海祖師も、やはり一千二百年の昔、遣唐使として唐に渡り、往時の国際都市長安の青龍寺において、恵果阿闍梨より親しく受法し、真言宗の八番目の祖となられるのである。

 「密教」は、「神秘性・象徴性・儀礼性の三つの要素が一定の体系をもって組織されている」ことを特色として、インドにおいて発達し、「呪術的性格が教義的・実践的に全く純化」し、呪法や呪文が神秘的な働きを促し、除災招福への祈りとなり、仏教にはなかった呪法が「教化の方便」として摂取され、約6〜7世紀に「組織的な経典や儀軌が整理」され、8世紀前後に一体系的な密教経典の大日経や金剛頂経などが成立」したとされる。

 密教が、仏教として純化するのは、祖師方の嫡々子相承の奥義の秘密伝承と、偏に弘法大師の真言宗開教の教義の著作のお陰である。

at 11:09, houwa-sugano, ちょっといい話

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第54話 真言宗

 殆どの方が「真言宗」は、弘法大師空海が開かれたと理解されているならば喜ばしい事だが、義務教育では宗教教育を避けてとおる為か、その教えも徹底はなく、「空海も最澄も知らない」という嘆かわしい結果で、お坊さんになるために、仏教大学で学んで初めて空海を識るという、現実もある。

 この「ちょっといい話」も50回も越えたので、そろそろ本来の真言坊主にかえって、時折「真言宗」や「密教」の話も伝えたい。

 ただ「ちょっといい(?)」だけだから、随筆風に漫然と書きたい所だが、真言宗や密教の奥義を易しく語るとなると、きわめて困難で、始めにお断りすれば、密教辞典を始め諸先生のご研究やご高説を拝借すること頗る多しで、一々参照の資料として挙げないが、諸先生にはお許し願いたい。

 「真言」とは、究極の境地や絶対の淵に立たされた時、言葉にならない真の叫びがあるように、胸中というか、全人格の心根から発する「真実語」を言うとされる。

 この語が、インドにおいてバラモン教の「神に対する祈り」として唱えられ、「帰依や祈願や鑚仰における聖句」として成りたち、人々の願いと救いの祈りとなった。

 時を経て、「陀羅尼」や「明呪」が完成し、大日如来の声による「森羅万象の絶対者の能力」の言説として、「一字一句に無量の教法の義理がある」と教理が熟成し、呪法や教義も整理され、真言宗が成立する。

at 11:08, houwa-sugano, ちょっといい話

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