- profile
- sponsored links
- links
- new entries
-
- 第100話 神仏を崇めぬ者II (03/25)
- 第99話 神仏を崇めぬ者I (03/18)
- 第98話 現代葬儀事情V (03/11)
- 第97話 現代葬儀事情IV (03/04)
- 第96話 現代葬儀事情III (02/25)
- categories
-
- ちょっといい話 (100)
- archives
-
- March 2009 (4)
- February 2009 (4)
- January 2009 (4)
- December 2008 (5)
- November 2008 (4)
- October 2008 (5)
- September 2008 (4)
- August 2008 (4)
- July 2008 (5)
- June 2008 (4)
- May 2008 (4)
- April 2008 (5)
- March 2008 (4)
- February 2008 (4)
- January 2008 (5)
- December 2007 (4)
- November 2007 (4)
- October 2007 (5)
- September 2007 (4)
- August 2007 (5)
- July 2007 (4)
- June 2007 (4)
- May 2007 (5)
- mobile
- search this site.
2008.04.30 Wednesday
第53話 黒白二鼠の譬えII
前項「白黒二鼠の譬え」の解説を加えたい。
先ず茫々とした荒野は、「人生の荒波」。
巨像は「不可抗力な自然の力」。
迷える旅人は「凡夫(人間)」、井戸穴は「安住の場所、幸せな家庭生活」。
藤蔓は「生命の糸(余命)」、大蛇は「死の影の接近」。
四匹の毒蛇は「肉体の病苦」、白黒の鼠は「昼夜の時」。
そして最後の甘い蜜の滴りは、いついかなる時も訪れる「人間の五欲(煩悩)」。
この譬え話は、我々凡夫の真の姿を言い当てていて楽しい。
荒野のような人生の荒波を、命を賭して生き抜くが、巨像のような自然の力や不可抗力が突然襲い、あわてて逃れたりする。
逃れた家庭という安住の地に居て、安らぎを求めていれば幸せはある。だが安住は続かない。必ず命には限りがあり、どんな者にも平等に、病や老い、死の恐怖は訪れる。
刻々と時は過ぎ、今日という日は帰らない。
瞬時も無駄にできない時と、避けられない苦しみがあるのに、暢気に今を過ごしている。
どんな謹厳実直な方も、一度煩悩の風が吹けば、もろく崩れ、我を忘れて欲望に身を任せてしまうものなのだ。
人間なんてこんなにも脆い。さまざまな欲望ほど、身を滅ぼすものはない。心して身と生活を律しなさい。という、譬え話です。
「煩悩(欲望)の風」に逆らい、身を修め、自己を律する、何事にも動じない安心が、釈尊の開かれた『仏教』の教えです。
先ず茫々とした荒野は、「人生の荒波」。
巨像は「不可抗力な自然の力」。
迷える旅人は「凡夫(人間)」、井戸穴は「安住の場所、幸せな家庭生活」。
藤蔓は「生命の糸(余命)」、大蛇は「死の影の接近」。
四匹の毒蛇は「肉体の病苦」、白黒の鼠は「昼夜の時」。
そして最後の甘い蜜の滴りは、いついかなる時も訪れる「人間の五欲(煩悩)」。
この譬え話は、我々凡夫の真の姿を言い当てていて楽しい。
荒野のような人生の荒波を、命を賭して生き抜くが、巨像のような自然の力や不可抗力が突然襲い、あわてて逃れたりする。
逃れた家庭という安住の地に居て、安らぎを求めていれば幸せはある。だが安住は続かない。必ず命には限りがあり、どんな者にも平等に、病や老い、死の恐怖は訪れる。
刻々と時は過ぎ、今日という日は帰らない。
瞬時も無駄にできない時と、避けられない苦しみがあるのに、暢気に今を過ごしている。
どんな謹厳実直な方も、一度煩悩の風が吹けば、もろく崩れ、我を忘れて欲望に身を任せてしまうものなのだ。
人間なんてこんなにも脆い。さまざまな欲望ほど、身を滅ぼすものはない。心して身と生活を律しなさい。という、譬え話です。
「煩悩(欲望)の風」に逆らい、身を修め、自己を律する、何事にも動じない安心が、釈尊の開かれた『仏教』の教えです。
at 11:57, houwa-sugano, ちょっといい話
comments(0), -
2008.04.23 Wednesday
第52話 黒白二鼠の譬え
仏教は凡夫を、どう捉えるのか?
茫々として、見渡す限り何一つない荒野を、疲れた空腹の旅人がさ迷い歩き続ける。すると突如どこから現れたか、群れを離れ凶暴と化した巨像が、旅人を見つけ、襲いかかる。
旅人は荒野を逃げに逃げ、足ももつれ根も果て、もはや此れまでと観念したとき、目の前に空井戸が穿かれているのに気づく。
巧いことに藤蔓も垂れ、それに捕まって井戸穴に下りれば、巨像も去って行くだろうと、先ずは安心して、井戸底へスルスルと降りると、妙な殺気を感じ、見れば今時遅しと、大口を空けた大蛇が待ち構えている。
アッと進退窮まり、身を縮めて逃れ、丁度の塩梅で中間にぶら下がっていれば、ひと先ず安心と回りを見ると、逃げ込めそうな横穴が四つも穿いている。しめたと思い、身を揺すり、横穴に飛び込もうと勢いをつけたら、今まさに飛びかからんばかりに、四匹の毒蛇がシャーッと狙っている。
しかしまだ藤蔓に捕まっているうちは安心と一息入れると、カリカリと上で音がする。見れば何と黒白二匹の鼠が藤蔓を噛んでいる。
終に命は風前の灯火と、観念したとき、藤蔓に咲くきれいな花から、一滴の甘い露が滴り落ち、旅人の唇にポタリッと落ちた。
「何と甘い蜜だろう」
旅人は、巨像も大蛇も毒蛇も二匹の鼠の事も忘れ、甘い露の落ちるのを、待ち望んだ。
永劫、凡夫は欲望の虜である。
茫々として、見渡す限り何一つない荒野を、疲れた空腹の旅人がさ迷い歩き続ける。すると突如どこから現れたか、群れを離れ凶暴と化した巨像が、旅人を見つけ、襲いかかる。
旅人は荒野を逃げに逃げ、足ももつれ根も果て、もはや此れまでと観念したとき、目の前に空井戸が穿かれているのに気づく。
巧いことに藤蔓も垂れ、それに捕まって井戸穴に下りれば、巨像も去って行くだろうと、先ずは安心して、井戸底へスルスルと降りると、妙な殺気を感じ、見れば今時遅しと、大口を空けた大蛇が待ち構えている。
アッと進退窮まり、身を縮めて逃れ、丁度の塩梅で中間にぶら下がっていれば、ひと先ず安心と回りを見ると、逃げ込めそうな横穴が四つも穿いている。しめたと思い、身を揺すり、横穴に飛び込もうと勢いをつけたら、今まさに飛びかからんばかりに、四匹の毒蛇がシャーッと狙っている。
しかしまだ藤蔓に捕まっているうちは安心と一息入れると、カリカリと上で音がする。見れば何と黒白二匹の鼠が藤蔓を噛んでいる。
終に命は風前の灯火と、観念したとき、藤蔓に咲くきれいな花から、一滴の甘い露が滴り落ち、旅人の唇にポタリッと落ちた。
「何と甘い蜜だろう」
旅人は、巨像も大蛇も毒蛇も二匹の鼠の事も忘れ、甘い露の落ちるのを、待ち望んだ。
永劫、凡夫は欲望の虜である。
at 11:56, houwa-sugano, ちょっといい話
comments(0), -
2008.04.16 Wednesday
第51話 「安楽死」を是認するのかIV
「死」の決定は個人の意志によると明言したが、個人が自ら死を求めたら、医師は意志を尊重して、実行するのだろうか?
そんなに軽い判断をする医師は、勿論絶対にいるはずはないが、医師と患者の基本的な相互理解『インフォームド・コンセント』は、重要且つ不可欠といえる。この医師と患者間の、説明 ・ 理解 ・ 同意の相互関係は、常に傍らに居て看取るという医師の覚悟なくしてはなく、両者に絶対の信頼と合意があれば、肉体的な疼痛や、懊悩や不安といった心の痛みも和らげ、生きる希望と励ましをも与え、医師自らが患者のたっての望みとはいえ、治療を放棄して、死を促すこともできまい。
では医師と患者が親子であり、患者も医師であり、家族にも医師がいるという構成では、共に医学を極め、治療の過程で重篤が更に進み、結果も予想できると患者自身も納得している場合は、終末期において、積極的な行動をしても良いか?
答えは「NO!」である。
医師が幾ら大勢いても、医師(それも家族の)だけの科学的判断は危険である。
「命」の尊厳は、不可思議な課題なのだ。
又、日本における親子の関係は、時として傲慢になり、親は子を、子は親の「命」を、自分の「命」の如く決定づける。
「命」守る上には、親子の情愛や医師の価値観には決定権はなく、遺漏なき真摯な医療行為と、「生」への祈りがあるのみである。
【参考記事:8月26日 朝日新聞 朝刊 『父を安楽死させた・・・医師告白』】
そんなに軽い判断をする医師は、勿論絶対にいるはずはないが、医師と患者の基本的な相互理解『インフォームド・コンセント』は、重要且つ不可欠といえる。この医師と患者間の、説明 ・ 理解 ・ 同意の相互関係は、常に傍らに居て看取るという医師の覚悟なくしてはなく、両者に絶対の信頼と合意があれば、肉体的な疼痛や、懊悩や不安といった心の痛みも和らげ、生きる希望と励ましをも与え、医師自らが患者のたっての望みとはいえ、治療を放棄して、死を促すこともできまい。
では医師と患者が親子であり、患者も医師であり、家族にも医師がいるという構成では、共に医学を極め、治療の過程で重篤が更に進み、結果も予想できると患者自身も納得している場合は、終末期において、積極的な行動をしても良いか?
答えは「NO!」である。
医師が幾ら大勢いても、医師(それも家族の)だけの科学的判断は危険である。
「命」の尊厳は、不可思議な課題なのだ。
又、日本における親子の関係は、時として傲慢になり、親は子を、子は親の「命」を、自分の「命」の如く決定づける。
「命」守る上には、親子の情愛や医師の価値観には決定権はなく、遺漏なき真摯な医療行為と、「生」への祈りがあるのみである。
【参考記事:8月26日 朝日新聞 朝刊 『父を安楽死させた・・・医師告白』】
at 11:53, houwa-sugano, ちょっといい話
comments(0), -
2008.04.09 Wednesday
第50話 仏教の主張
『アメリカ同時多発テロについて』
「(略)テロは、自由と民主主義の敵であり、力を合わせてその再発を防止したいと願っておりますが、このたびのテロの根底にある宗教的信念が見え隠れしている報道に接し、問題の深さを感じます。私たち仏教徒は、釈尊の寛容さの精神と弘法大師のマンダラ思想を基本に置いて、異文化や他宗教と共存できる道を探り続けなければならないと、切に考えております。犠牲者各位のご冥福を祈り、同時にこれ以上の対立の拡大の無きことを願って止みません。」
この文は、私の寺を包括する真言宗豊山派が、この度の震撼の大惨事が同時多発テロと表明された時点で、時を置かず代表名で発信したものである。
短文だが、瞬時の対応としては、仏教者の見解と立場を明確にし、無益な対立を戒め、寛容な共存を強調する等、正鵠を得ている。
「信ぜよ!信ずる者のみ救われる」は、イスラムもキリストも同じで、洗脳され、武器を持ち高声に批判し罵る少年の姿も、敵を憎悪し報復を煽る者も同じ次元で、宗教指導者に対する、震える程の怒りを覚える。
釈尊の神話の神をもたぬ仏教は、「まず明らかに見よう、そして真実の道を進もう」と、まず考えること、正しく見る事を主張され、盲信や狂信を戒め、自我の滅却による対立を無くす、平和と自由への道を示された。
又弘法大師は、全てを融合し包括する共存のマンダラ思想を主張され、平和を希った。
「(略)テロは、自由と民主主義の敵であり、力を合わせてその再発を防止したいと願っておりますが、このたびのテロの根底にある宗教的信念が見え隠れしている報道に接し、問題の深さを感じます。私たち仏教徒は、釈尊の寛容さの精神と弘法大師のマンダラ思想を基本に置いて、異文化や他宗教と共存できる道を探り続けなければならないと、切に考えております。犠牲者各位のご冥福を祈り、同時にこれ以上の対立の拡大の無きことを願って止みません。」
この文は、私の寺を包括する真言宗豊山派が、この度の震撼の大惨事が同時多発テロと表明された時点で、時を置かず代表名で発信したものである。
短文だが、瞬時の対応としては、仏教者の見解と立場を明確にし、無益な対立を戒め、寛容な共存を強調する等、正鵠を得ている。
「信ぜよ!信ずる者のみ救われる」は、イスラムもキリストも同じで、洗脳され、武器を持ち高声に批判し罵る少年の姿も、敵を憎悪し報復を煽る者も同じ次元で、宗教指導者に対する、震える程の怒りを覚える。
釈尊の神話の神をもたぬ仏教は、「まず明らかに見よう、そして真実の道を進もう」と、まず考えること、正しく見る事を主張され、盲信や狂信を戒め、自我の滅却による対立を無くす、平和と自由への道を示された。
又弘法大師は、全てを融合し包括する共存のマンダラ思想を主張され、平和を希った。
at 11:52, houwa-sugano, ちょっといい話
comments(0), -
2008.04.02 Wednesday
第49話 「安楽死」を是認するのかIII
拙稿の第3話「二者択一」でも述べたが、命を左右する大事の決定は、「右か左」「良いか悪い」「認める・認めない」「是か否」の二つの選択肢からは、答えは選べない。
だから、自分以外の他の人に対し、こちらを選択するべきだとの示唆や積極的なアドバイスも、要らぬお世話と言える。
ましてや、宗教家や医師のように、いのちの根幹に直接携わる職域にある者は、「生」へのさまざまな教えや励ましや叱声は為すべき重要な仕事といえるが、「死」へのかかわりに対して、消極的・積極的をとわず、他者への働きかけや行使は無用で、むしろ虚言や邪道というべき行為だと思っている。
具体的に言えば、「脳死」や「臓器移植」に直面した患者や家族から、その意志決定を求められとき、釈尊の例え話(仏教説話)を以て、経典にはこう説かれているから、こうすべきであるとか、或いはこうすべきで無いと、積極的にしろ、消極的にしろ、自分自身の未熟な価値観で判断して二者択一して示唆した場合、宗教者の奢りへの疑問は残る。
却って謙虚に「解らない」とし、「命」の決定には、多くの選択肢から、個人の意思決定を尊重するように、教え諭す必要がある。
多者から択一するのは、個人の意志であり、結果は正しい選択肢なのである。
Y氏は医師であり、職域は治療にあった。患者が望んでも、治療を放棄し、困惑し、自らが積極的な死を選択してはならない。
【参考記事:8月26日 朝日新聞 朝刊 『父を安楽死させた・・・医師告白』】
だから、自分以外の他の人に対し、こちらを選択するべきだとの示唆や積極的なアドバイスも、要らぬお世話と言える。
ましてや、宗教家や医師のように、いのちの根幹に直接携わる職域にある者は、「生」へのさまざまな教えや励ましや叱声は為すべき重要な仕事といえるが、「死」へのかかわりに対して、消極的・積極的をとわず、他者への働きかけや行使は無用で、むしろ虚言や邪道というべき行為だと思っている。
具体的に言えば、「脳死」や「臓器移植」に直面した患者や家族から、その意志決定を求められとき、釈尊の例え話(仏教説話)を以て、経典にはこう説かれているから、こうすべきであるとか、或いはこうすべきで無いと、積極的にしろ、消極的にしろ、自分自身の未熟な価値観で判断して二者択一して示唆した場合、宗教者の奢りへの疑問は残る。
却って謙虚に「解らない」とし、「命」の決定には、多くの選択肢から、個人の意思決定を尊重するように、教え諭す必要がある。
多者から択一するのは、個人の意志であり、結果は正しい選択肢なのである。
Y氏は医師であり、職域は治療にあった。患者が望んでも、治療を放棄し、困惑し、自らが積極的な死を選択してはならない。
【参考記事:8月26日 朝日新聞 朝刊 『父を安楽死させた・・・医師告白』】
at 11:48, houwa-sugano, ちょっといい話
comments(0), -
| 1/1PAGES |