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第35話 季節の行方

 山形から畏友から、ルビーのような見事なサクランボが届いた。年々早くなる贈り物に、家内総出で戴き、季節を満喫した。

 サクランボは早生というわけでもないのに、四月には店頭に並ぶし、今年も桃や梨、蜜柑だって出ている。

 蜜柑と言えば、まだ高校生の頃、初めて詣でたお盆の棚経で、仏壇のお飾りに、青々とした蜜柑が供えられていたのを、鮮明に覚えている。今日では青い蜜柑や林檎の方が珍しいし、柿は春に地球の裏から来るという。

 今や食べ物には、季節は皆無と嘆いていたら、和菓子には、まだ季節があるらしい。

 多分、茶の湯の関係か、桜餅や葛桜、柏餅、椿餅、きちんと季節を主張している。

 仏壇のお供えも、ご先祖様や先亡の諸精霊へ、最高の物を供えるという心使いからか、旬や走りの物が多く、季節感が表れる。

 余談だが、お葬式の山盛りのご飯は、白米が最高のご馳走であった頃の名残りである。

 お彼岸のぼた餅もおはぎも、何故供えるのかは答えに窮するが、多分ご飯に甘い餡(白米に甘み)をまぶすという事が最大級のご馳走で(地方では四十九日忌に必ず作る)あるためで、同じ物なのに春は「牡丹餅」、秋は「お萩」とゆかしいし、葬儀の饅頭はしのぶの葉を焼押して故人を「偲ぶ饅頭」だし、お稲荷さんも必ず、裏表2種類作る。

 古人の知恵は、お供えものや施物にも、季節を意識していて、雅味豊かで美しい。

at 18:21, houwa-sugano, ちょっといい話

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第34話 瞬時の邂逅

 今更、食通や芸通を気取って、粋人ぶったりはしないが、日本人だけがもつ味覚や視覚、聴覚は、格別のものだと自負をしている。

 しかしこの頃の、安直で、マスコミや情報過多に踊らされている風潮に苦言を呈したい。

 やたら高額なものに(得てして店の思惑通りにはまって)妙に感激して悦に入ったり、ラーメンなんて大衆食にも(これが又、妙にこだわる店主や客がいて)、したり顔で能書きをいう輩もいる。

 曾て吾が先輩には、今のテレビや食のガイドブックのようではなく、本物飲みがもつ世界や心意気、主人との駆け引きを、その遊びの中でさりげなく伝授して下されたものが多く、忘れられない感動と共に、味覚や聴覚を磨く習練になってきていた。

 食や芸は出逢いに瞬時に消えてゆき、二度の逢瀬はない。自分の体の調子や食への期待、食材の時期と鮮度、作り手と素材との戦い、職人の技量、その上に主人と客の意気と間合い等、その日の味覚の全ての条件が揃うことは絶対にありえない。だから、消えゆく刻のさりげない緊張が感動を呼び、心に残る。

 食通の方の本を読んでも、味覚は伝わらない。それは、その場の雰囲気や食材、それにも増して主人と客との出逢いや親しみが、味にこもるからで、味それよりも瞬時の邂逅に賭ける駆け引きが表現されるからなのだ。

 日本人の味覚は、「一期一会」。

 昔から誰もが知っていることである。

at 18:20, houwa-sugano, ちょっといい話

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第33話 消える美学

 毎日漫然と過ごしていると、緊張感というか、感覚や反応も鈍くなって、物事をなおざりにしたり、明日に持ち越したりは当たり前で、近頃の便利さが、今という時の大切さを、忘れさせるように仕向けるのか、一々記憶する煩わしさの逃避をも増長させるらしい。

 コンピューターやビデオ、コピー、携帯電話、事務機器、など全てが、今を記録保存してくれるから、対峙する緊張感も薄れる。

 仕事や情報は、まこと至便でありがたいが、現代社会の文化や生活の分野に、要らぬ記録が及んでくると警告を発しざるをえない。

 今、テレビ番組は食べ物と温泉旅館で構成されて幾久しいが、辟易としているのは誰も同じと思うが、固定した視聴率を稼ぐから成り立っている訳で、文句は言えない。

 しかし、食感や体感は、自分の舌や皮膚の感覚で味わうもので、人様が「美味しい!」なんて貧しい語彙で表現したり、浸かりもしない温泉の熱さや、もてなしの感激を伝えても、うっかり信用しないことである。

 本来、食や芸は瞬間に消えていくもので、人に依って去来し、瞬間の出逢いが、極めて重要な要点で、記録や評価は無用である。

 瞬間は一度しかないし、職人や芸人との一瞬の機微や駆け引きが肝心で、大層な事だが、今やこの刻は二度とない覚悟が肝心である。

 味覚や聴覚、視覚は、再びまみえないから、常に作り手との適度な緊張感と、研ぎ澄ました自分の繊細な感覚が大事なのである。

at 18:19, houwa-sugano, ちょっといい話

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第32話 崩壊した人間関係

 現代の社会問題の起因は「こころの荒廃」であると叫ばれて久しい。

多分に被害妄想狂の類い過多で申し訳ないが、この荒廃ぶりは、単に政治や社会、教育の在り方の政策の欠陥を因とするきめつけは、あながち外れではないが、もっと根本的な原点を探れば、1945年8月15日に有ると確信に近い思いをもっている。

それは占領政策の結果がもたらしたものということで、政策すべてに日本の民族性や国民性、生活様式、習慣、依ってきたる人生観、生死観というものを含めて破壊し、新生日本人を創りだすことに目的が有ったと、盲信を抱いているからである。

 だから、戦後の政策や教育の制度は、その政策が結実すればするほど、かつての日本人らしさを失う結果になるといえる。

 このことは、日本のこころであった「より良い人間関係」が、完全に崩壊した現実が事実を証明している。

 「親と子」「教師と生徒」「医師と患者」「家族と老人」「寺と檀家」「男性と女性」など壊れた関係は枚挙に暇ない。

 より良い人間関系の崩壊は、個人の尊重という美名に隠れて、問題を惹起しているのだ。

 かって、日本の心であった、より良い人間関係は、同志の絆がよく回転して、社会問題として、惹起される前に、単純な家庭問題として、周囲の者の手によって、摘み取られ、大らかに解決して来た。

 今、その実態すらも見えず、解決策もない。

at 18:18, houwa-sugano, ちょっといい話

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