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第31話 新幹線症候群IV
「十四無記(じゅうしむき)」という釈尊の教えがある。仏教語大辞典によれば、「無答記ともいう。他の諸宗教諸学派から向けられた十四の形而上学的質問に対して、釈尊が黙して答えを与えなかったこと(『倶舎論』)」とされ、釈尊が異教徒から「世界は常であるか、無常であるか。有辺か無辺か。如来は死後存するか、存しないか。」等の十四の問題に全く答えなかった事を言うとある。
「無記」の教えは、解らない事を、ことさら問題にしても意義もないことで、「善でも悪でもない。果報をもたらさないこと」は、「記録」にも値しない「訳のない」ことで、全く答える必要すらないという事であろう。
今、現代社会はこの「記録」にも値しない「訳のない」ことに、何と無駄な時間と労力を注いでいるか、実感としてある。
科学の進歩が、多大なる社会の文明化と恩恵をもたらしたことには、感謝と賞賛は惜しまないが、反面すべてをあからさまにしなければ、文化では無いような風潮がはびこり始めて来ている事には、不審を抱く。
死後や死に対する命の問題もまさしくこれで、釈尊さえ黙して答えなかった事を、大問題のごとく口角泡を飛ばして論じる者の、口車に乗らないことが賢明である。
クォリティー・オブ・ライフ。これさえもメディアの誘いには乗らず、自分を如実に知り、自身の価値ある生活を工夫し、今の刻を無駄なく生き抜くことであろう。
at 18:17, houwa-sugano, ちょっといい話
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第30話 新幹線症候群III
理由は、ふと思いついて始めた、新聞の切り抜きが原因である。その年の一月元旦より、ニュースやノンフィクションは別にして、「死」という言葉が、どのくらい紙面に載るかを、スクラップしてみた。
あるある。曰く「死を看取る」「死を考える」「よりよい死を」「死の準備」「死後の処し方」「安楽死」「尊厳死」「老いと死を」「死の医学」「脳死」「生と死を問う」等など、死のオンパレードである。
その内容は他人事で、死を体験し、死後を見たかのようで慄然とする。
日本人はいつから、死ぬことばかりを考え、語るようになったのか?
半月で、スクラップは一冊になった。
重く心に残り、「生と死を考える会」を主催する自分も、その仕掛け人の一人と気が付いたとき、これはいけないと思った。
大まじめで、時代の先を歩く一人として、「死の準備」の啓蒙には、かなり早くから参加して来たし、自信もあった。
「辞めよう」と思った。
死は誰にも語れないし、語る必要もない。命は人それぞれ、命あるかぎりの「安楽生」や、「尊厳生」ならばあると断言できる。「安楽死」や「尊厳死」があるはずがない。
途中下車より、無心に生涯を翔るべきだ。
at 14:45, houwa-sugano, ちょっといい話
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第29話 新幹線症候群II
真言宗の教理を説くために新幹線の話をなされ、乗ったら降りる式の結果だけを重視して、悟りのみを求めるのではなく、一つずつ積み上げる修行の果てに悟りに達するように、その修行の過程が大事だと力説された。
今、教育もスポーツも、日頃の多忙を癒す旅行さえも、その過程は誰もあまり大事にせず、結果オーライ主義が蔓延している。
教育は試験地獄が示す通り、幼児教育においてさえ、いい小学校、より親の見栄を満足させる中学校へ入学するための幼稚園であり、子供の資質や能力、やがての将来を考えて、いかに学園生活を過ごし、よい友人に恵まれるかは、選択肢には無い。
スポーツも結果ばかりで、オリンピックも金・金・金でうんざりするし、サッカーもイチローも結果ばかり、だからtotoなんて馬鹿な賭けに夢中になるし、連続安打中断に真顔で嘆く。スポーツは汗を流し、その技や気力、競い合い、そこに白熱する瞬時と友情とスポーツマンシップに酔いしれるのだ。
海外旅行だって、着いたら又その先へ飛び回り、土地々々の機微に触れる余裕も無い。
人生さえも、やれ「散骨」だ「死後の決定」だと、「新幹線症候群」に冒され始めた。
余生は鈍行に乗って、駅弁をひろげ、回りの景色を楽しみ、ゆっくり行けば良い。
終着駅を考えたら、おしまいでしょう。
at 14:44, houwa-sugano, ちょっといい話
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第28話 新幹線症候群I
だから、「新幹線症候群」は、新幹線に乗ったお客が同じような思考状態に陥るように、社会においても同傾向の思考性癖をもつ症状が表れると言うことであろう。
昭和38年新幹線が初めて、東京〜新大阪間が開通したとき、わずか6時間という早さは異例中の驚愕で、朝一番で出掛け、会議をすませ最終で帰るというフットワークの軽さは、出来るビジネスマンの誇りであった。
しかも、現在は新幹線網も九州、北陸、東北まで延び、東京と新大阪間は最短2時間半、飛行機の搭乗手続きや空港までのアクセスを考えると、航空機よりも明らかに迅速である。
しかし、新幹線の使命は、安全にいかに早く目的地に到着することにあるとすれば、乗車即目的地に到着が理想である。
近頃は、途中停車の多い号車に乗り合わせると、時間の無駄をしたように感じる。
この乗車即目的地下車の「結果オーライ的傾向感覚」が症候群の兆しで、教育、スポーツ、人生など、全ての社会行動にある。
乗る前から降りることを考える「新幹線症候群」は、ゆとりと潤いのない、無粋で非情な社会の、異常症状といえる。
at 14:42, houwa-sugano, ちょっといい話
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