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第22話 映像の嘘 II

 先章の映像の重大な社会問題とは、創られた嘘の事象を、あたかも本物の如く思い込むという事にある。そんなことは現代では当たり前で、別に重大なことではないように思われがちだが、そのものが嘘だとわかって、嘘を楽しむ分には良い。しかし、嘘だとわからずに、初めから実在するものと信じるところに問題が生じる。

 恋愛劇や時代物は良い。しかし、空想物や戦争、暴力や破壊や傷害は、見る者にとって極めて現実味溢れる映像は、いやが上にも臨場感を煽るが、暴力や破壊や傷害の、痛みや血しぶき、つらさや悲しみは傍観する第三者には直接肌には伝わらず、その事象だけが現実のごとく残像し、本当に思えてくる。

 曾て六十年代迄の映画は、SF(サイエンス・フィクション)物や活劇では、宇宙科学も、壊れる家もビルも、崖から落ちる車も、稚拙な「特殊撮影(トクサツ)」技術を最大限に駆使して、本物らしく破壊されて、見る者も嘘と心得て、本当の事のように納得した。

 68年「2001年宇宙の旅」、75年S・スピルバーグ監督の「ジョーズ」は、本格的SFX(スペシャル・エフェックス)の幕開けとなり、90年代の「ジュラシック・パーク」「インディペンデンス・デイ」「タイタニック」「マトリックス」は、愈々CG(コンピュータ・グラフィックス)の登場で、本物以上の創り物が画面を席巻した。

 映像は嘘。嘘を本当と信じない事である。

at 14:33, houwa-sugano, ちょっといい話

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第21話 映像の嘘 I

 終戦間際の誕生の私(と言うことは、映画産業の一番華やかな昭和三十年代を、青春時代と共に送った)にとって、映画程心ときめかせたものはないし、文化もファッションも憧れも、情報全ての収集源であったから、月平均十本の割りで、劇場へ出かけて見ていた程の熱狂的な「映画おたく」であった。

 時代劇は勿論、現代劇や空想の科学物など、殊に洋画はまだ見ぬ世界の国々の街角や、その織り成す情景にしびれ、粋なギャングの仕草にも胸をときめかせ、文化を盗んでは、早熟な青春を謳歌し、映像と共に駆け抜けた。

 しかし、この時代に映画に魅せられたことは、映画の本質をきちんと認識した点で、極めて有意義なことであったと、見続ける現在においても感じている。それは、映画はあくまでも虚構だと言うことである。

 脚本も俳優も演技も背景も全てが虚構で、アングルやカット、照明、トリミングで編集し創り仕上げた、実在しない世界なのだ。 

 しかし、1969年のアポロ11号月面着陸成功とコンピュータ・グラフィックの科学の進歩と普及は、映画の虚構性を根本的に変え、技術的に稚拙にしか表現できなかった虚構では満足できず、本物以上に本物だという虚構を、提供せざるを得ない現実となった。

 嘘だと認識して見る映画と、現実を越えた嘘を、映像で体感して、知らずに虚構を現実として肯定して、本当と信じてしまう。 

今、映像は重大な現代問題を誘発している。

at 14:32, houwa-sugano, ちょっといい話

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第20話 バーミヤンの大仏破壊

 世界的な文化遺産であるアフガニスタンのバーミヤンにある仏教遺跡が破壊された。

その模様はテレビや写真でしか伺い知れないが、砂ぼこりを巻き上げた爆破の瞬間は、眼を覆う有り様で、大石仏は全壊と言ってよいほどに無残に腰から下を失っていた。

 イスラム原理主義タリバーンが心酔し絶対法と信じて止まないコーランの偶像崇拝禁止を実践したことによる、愚行・蛮行である。

 このことは、俄に日本の仏教徒には解り得ないが、イスラムにおける偶像崇拝禁止は、彼らが信じる神は、絶対であり唯一(仏教以外はすべての宗教がそうであるが)で、その神と契約することが信仰であることから、自分自身が全く偶像を崇拝しないだけでなく、他の宗教の崇拝対象の偶像の存在も容認できないという、極めて排他的な主張により破壊が実行されるのである。

 しかしこの事実は、ことタリバーンだけの愚行では無い。今世界の各地に勃発する民族紛争(何故マスコミが 宗教紛争 と報道しないのか不思議である。)全てが、同次元の野蛮で愚かな争いなのだ。東西の冷戦が終わり、社会主義が崩壊して尚、いまだ争いが治まらないは、キリスト教やイスラム教、ロシア正教、ユダヤ教などの、絶対唯一の神を信奉する、排他的な狂信の対立に他ならない。

 絶対神をもたない仏教は、大らかで包容力に富み、他と調和し融合しあい、唯一争いを求めない、平和主義の宗教だと断言できる。

at 14:30, houwa-sugano, ちょっといい話

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第19話 「空(からっぽ)」 II

 良寛和尚の偉大さというか名僧たる所以は、子供に愛され、大らかな生き方と、その残された書の素晴らしさは言うに及ばずながら、実は大乗仏教の「空」の教えを、見事に体得し実践された方だということにある。

 和尚は、新潟県の西蒲原郡分水町の国上の山麓に五合庵を結んで、里の人々と穏やかで、一方で人間臭い人生を謳歌された。

 その生活は質素で、一つの鍋で顔を洗い、手足を濯ぎ、煮炊きをして、回りの人々を驚かせた。このことは有名な話なので、誰でもが知っている事だが、良寛和尚は貧しくて一つの鍋で、生活したのではない。

 汚いとか奇麗には、どこまでが汚くて、奇麗かなんて区別も境もない。

 仮に貴方が喉が渇いたとき、私がトイレの手洗いの水をコップに差し出したら、喜んでおいしく飲めるだろうか。きっと怒って払いのけるに違いない。

 でも水を汲むところを見ないで差し出されれば、きっと甘露の慈水と飲み干すだろう。

日本ではトイレも台所も同じ水である。

飲めないのはトイレの水は汚いという、拘りがあるからで、そんなものは取るに足らない。

 だから洗ってしまえば、鍋は何の汚れも無く、煮炊きしても一向にお構いなし。
 「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」
 「無一物中無盡蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)」

この教えを、何のてらい無く実践したから、良寛和尚は名僧なんです。

at 00:00, houwa-sugano, ちょっといい話

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