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第18話 「空(からっぽ)」という事

 インドで開かれ北伝した大乗仏教は、シルクロードを経て中国へ、更に朝鮮半島を進んで日本に根付くが、その教えをたった一言で説明すると「空」ということになる。

 私たちが、常々存在していると思っているものは、勝手に自分で思っているだけで、本当は何もなくて、からっぽなんだといこと、それを「空」という言葉で表現する。

 だから何も無いことに、何時迄もこだわらずに、心をからっぽにして拘りを捨てれば、悟りの境地に達することができる。

 「般若心経」というお経は、わずか二百六十二字で「空」の教義を簡潔に説いた、極めて稀な重要経典である。

 多いと少ない、きれいと汚いは、どこまでが多くて、どこまでが少ないか、きれいと汚いはどこで区別をつけるのか、色だって本当の赤や緑は誰も解らない。ただ見たり聞いたり感じたまま、自分で思い込み、その思い込みに拘って、汚いとかきれいと思い、多いとか少ないとかで一喜一憂する。

 人間同士もそうで、ちょっとのお付き合いで、一生の友と断じて裏切られて恨んだり、ほんの少しの欠点をあげつらって、その方の全ての人格を評価したりは日常茶飯事である。

 人間って、けちだったり、大酒飲みだったり、ギャンブルが大好きでも、好人物はいる。 

真面目人間でも悪人はいるものです。

 一面のみに拘らず、心を空っぽに、大らかに構えると、大事が見えるものなんです。

at 00:00, houwa-sugano, ちょっといい話

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第17話 互助 VI  檀家

 先述(前章「布施」)のとおり、日本仏教は寺の維持管理や堂宇の造立には、普請(ふしん:建設の仏教語で、広く寄進を集めてお堂等を造営すること)の語が示すように、檀家制度という特定の組織によって、その賄いや経費が集められ経営されてきた。

 このことは、より密接な寺檀の関係を確立し、自分たちの寺意識が芽生え、組織としての秩序や相互の役割も分担された。

 しかしその負担は、極めて民主的に平均に分割されたかといえば、そうではなく、合理的な分限による負担によって、自然になすがままの、極めて複雑多岐な、逆に極めて素朴で簡素な方式でなされた。町を維持する町会費の負担などにも、その習慣は残されている。

 これに対して寺側は、檀家という特定の信者の組織を大事に扱い、決して差別ではなく、個々にその分限による(これ又極めて複雑多岐な、逆に極めて素朴で簡素な)方式で、寺と檀家の関係を営んでいった。

 戒名等もそうで、本来各宗の教義に則った各々の意義はあるが、相互互助的発想からいえば、分限による温かい喜捨への、寺側からの御礼的な行為であり、「諡名(おくりな)」という所以である。

 だから、檀家外には戒名は授けないし、生前に戒名を授かった方は、檀家として登録され、菩提寺との約束がなされるのです。

 菩提寺を持たない家は、当然「相互互助」からは外れるのです。

at 00:00, houwa-sugano, ちょっといい話

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第16話 互助 V  布施 ロ

 NHKの番組クローズアップ現代で、「戒名料」を取り上げたプロデューサーが、番組俎上は戒名料は宗教の現代問題なのだといい、ある評論家は消費者問題だと言及した。

 これは端的に、今の仏教事情を言い表していて、宗教そのものが現代問題なのだから、言い訳のしようもない。戒名の仏教教義は別にしても、寺側にも責任はあるが、寺と信徒の相互関係も十分に理解し認識してほしい。

 日本における仏教主と信者の関係は、死者儀礼が確立して後、堂宇の回りに墓所を建立したため(逆もあろうか)、参詣の至便とお堂の管理面からも、檀家制度が発達し、寺と家という実に緊密な関係が芽生え、僧侶と信者という個々の信仰関係が薄れた。

 この家々と寺の関係の檀家制度は、保証された宗教の自由という、個人の基本的人権上では、甚だ人権無視の制度ではあるが、寺を経営するものにとっては、誠に都合の良い習慣となって今日に至っている。

 即ち、不特定の個々の布施(喜捨)によって成り立つ運営が、家という予めに約束された、特定の信者集団によって支えられているのだから、これほど強固な護持はないのである。

 これは先人の、物を共有し維持するための、労力や財の負担を軽く分配するという、卓越した知恵の結晶であろう。だから、分限の違いによって、公平にそれぞれが負担し、互いに扶け会う強固な護寺制度が確立した。

 ここに布施が、互助という根拠がある。

at 00:00, houwa-sugano, ちょっといい話

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第15話 互助 IV  布施 イ

 最近の社会問題の一つに、仏教界の戒名問題があり、全日本仏教会は「戒名(法名)料はという表現・呼称は用いない」と、発表した。
このことは、真面目に寺院運営をなさっている住職にとっては、当然の事で、いまさらと言う感じだが、私見を述べたい。

 もともと「戒名料」も「お経料」もない。寺への御礼は、その基本は奉納であり、布施(ふせ)といわれ、原語は「ダーナ」、本義は「ほどこし」で喜捨(きしゃ)といい、貧しい方や仏教修行者に、見返りを考えない奉仕を財で与える事をいいます。

 ダーナは、「檀那」と音写され、「檀」は仏教にとって極めて重要な、菩薩への六つの基本的な実践行の一つとされています。

 実は「檀那様」は、奥様のものではなく、お寺のものなのです。

 寺の運営は、もともと営利を目的としたものではありませんから、利益の追求もしません。だから寺の経営は、すべてこの見返りを考えない「布施」によって賄われます。

 仮に百軒の檀家(寺へ施しをする家)を持つ寺が、百万円を必要とするとする。民主的に考えれば一軒当たり一万円の負担になるが、十万円を用立てる家が三軒、五万円の家が四軒あれば、残り五十万円は九十三軒で用立て、一軒の負担は五千余円と軽くなる。

 護寺をして戴くのは、民主的な計算では平等では無く、檀家さんが共に補い合って寺を守る。布施が互助という証しです。

at 13:26, houwa-sugano, ちょっといい話

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第14話 互助 III  香奠

 お葬式になると必ず、お悔やみの印として「香奠=典(こうでん)」を、先様に持参することになるが、今日では香奠の意味も目的も理解しない方が多いと思う。

 香奠は、もともとインドにおいては、遺体の腐臭を消すために、香木を焚きこめることが転じて、「良い香りを供える」「香しい匂いを供えるしきたり」になり、清らかな香を供える資に変じた物であろうと思われる。

だから香奠の本義は、お葬式に係る費用の相互の負担であり、緊急の一人では賄えない扶けとして供えられるものなのである。

 以前はどこの家でも「香奠帖」を管理して、知人にご不幸があれば、先ず香奠帖を開いて確認し、戴いた相手ならば必ずお悔やみに参上し、香奠をお届けした。また香奠帖に記載がなければ、知人でも告別式のみにお邪魔し、焼香だけでお悔やみを済ませた。

 昨今は、お悔やみに伺う方が全てお香奠を持参するのが当たり前で、家族がそれぞれお香奠を持って行く場合も間々ある程で、焼香もしない他人の香資を預かり、返品のお茶を3個も5個も下げて帰る人もいる。

 だから、やれ通夜・葬儀・四十九日忌までは「御霊前」で、それ以降は「御仏前」などと、真顔で説明する人もでてくる。

 ちなみに「御香奠」が正しく、「御香資」「御芳資」と書くも良い。

 急な物入りを扶けあう、先人の素晴らしい相互互助の智恵が「香奠」なのである。

at 13:24, houwa-sugano, ちょっといい話

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