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第13話 互助 II  四苦八苦

 お釈迦様はカピラ城の王子様として生まれましたが、ある日、城の門から街に出られ(『四門出遊』という良く知られた話)、人間には四つの苦しみがあることを知ります。

 この世に生を享けるという事、老いる事、病に冒される事、死が訪れることの四つは、誰にでも平等に訪れて、避けることのできない「四苦(しく)」だと気づきます。

 最初の「生まれ」が何故苦かということは、あまり日本人には解らないかと思いますが、自分では親を選べないと云うこと、貧富のはげしいインドでは、生まれた境遇に人生そのものが約束されるから、苦なのです。

 更にお釈迦様は、人間にはもう四つの苦しみがあることに気づきます。どんな愛おしい人とも別れなくてはならない事『愛別離苦(あいべつりく)』、逆にどんな嫌な人とも会わなくてはならない事『怨憎会苦(おんぞうえく)』、求めても求め切れない事、『求不得苦(ぐふとっく)』、体が盛んになり、年齢とともに、それぞれの場で出会う困難な事『五蘊盛苦(ごおんじょうく)』の四つです。

 「四苦」にこのあとの四つの苦しみを加えて「四苦八苦」といいます。

 人生「四苦八苦」といいますが、この苦しみを克服することに、お釈迦様はいどまれ、難行苦行の末、お悟りを開かれました。

 一人では苦は克服できない。仏教の共に分かち合う互助精神こそ、真の人生の安らぎを共生する、苦滅の祈りなのです。

at 13:24, houwa-sugano, ちょっといい話

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第12話 相互互助

 仏教の教義が普遍し、実生活の中に生かされ、日本人の生き方の実践的知慧として、日常で定着したものに「互助」がある。

 これは共生する者が考えた、合理的な精神に支えられた、頼りがいのある知慧である。しかし近ごろの社会生活において、「互助」が姿を消しつつあるから心配である。

 かって、祝祭や仏事は相互の「互助」に支えられて、成り立った。即ち、隣人に祝い事や難儀が生じた場合、いつかは必ず自分自身にもそれがもたらされる事をきちんと受け止めて、他への祝いや苦しみに駆けつけて、互いに助け合って、共に喜び或いは悲しみを乗り越えたのである。

 殊に「生老病死」の四苦は、どんなものにも平等に忍び寄る苦しみであり、この苦を乗り切るために、人間は一人ではどうにもならないことに気づき、自然に「互助」という助け合いの精神が生まれた。

 だが、最近はお葬式などもホールで執行したり、介護なども近所の親しい手を借りることもなくなった。たまたま、自宅葬や家庭介護を余儀なくされると、狭い、汚い、駐車場もない、人の出入りが煩わしいなどと、隣から非難をあびる始末であるという。

 人生至上の時、やり切れない失意の刻、傍らに共に喜び、悲しむ方がいてくれたら、悦びは倍増し、悲嘆はきっと半減するだろう。

 あぁ日本人はいつから互助精神を忘失し、尊大になり、利己主義になったのだろうか。

at 13:19, houwa-sugano, ちょっといい話

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第11話 知識と智恵[慧](3)

 「毒箭(どくせん)を抜かずして空(むな)しく来処を問わざれ」
この言葉は、弘法大師が比叡山の最澄上人(伝教大師)から『理趣釈経』という密教経典の借用を書面で依頼されたのに対し、断りの返書をしたためた中で述べられたものである。

 もともと中阿含経にあるお釈迦さまのお逸話で、「毒矢が体に突き刺さったならば、先ず矢を抜くことが肝心で、この矢はだれが射て、どんな弓か、何処から飛んで来たかを解明することではない」、密教の受法もおなじで、書物を借りて読んで理屈によって会得できるものではない。ひたすら心を虚しくして、他心なく法を受ける事が肝心なのである。

 即ち、文字では法は悟れない。身を捨てて体験する中で、真の生きざまの中に、本当の生きがいが生まれてくるのだ。

 このことは、マニュアル文化と言われる昨今の事情と似ている。子育てや老人の介護がそうである。

 今、書店の棚には四畳半が埋まるほど、関係書物が書かれ、販売されている。全てを読破して、子育てや介護ができるだろうか。又、そうして欲しいと望むだろうか。

 それより、おんぶに抱っこの温もりの抱擁と、慈しみの思いやりが大事なのだ。

 勿論、知識は大事で、背中のカバンにたくさん詰まっている人程、人生は豊かである。

 しかし実生活では、先人や先輩の智恵を借りて、真似(学)ていく、これが理想だ。

at 13:17, houwa-sugano, ちょっといい話

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第10話 知識と智恵[慧](2)

 最近、車に同乗させていただくと、必ずカーナビゲーションシステム(カーナビ)が設置されていて、どんなに遠くても、かなりの小路も的確に情報が与えられて、誠に便利なものができたものだと驚かざるを得ない。しかし、何度か乗り合わせているうちに、おやおやと思うことも間々ある。

 やっと目的地の周辺にたどり着くと、非情にも道案内を突然に打ち切られ、結局そばまで来て、迷って予定時間に着かないなんて、笑えない話もあるし、勝手に運転者が自分の知ってる道を行こうものなら、再三に際しその補正に努め、しきりに是正を求める。

 このこと、知識と知恵を説明するのに持ってこいの譬えである。

 まさしくカーナビの道案内が知識で、自分自身の経験と感を頼りに、的確な判断で目的地へたどり着くことが智恵である。

 確実に地理を熟知したマニュアルがあっても、工事や事故のアクシデントに巻き込まれたり、途端にその道路が使用不可能になれば停車せざるを得ない。

 一方、自分の体験に任せる方は、臨機応変に判断して、難なく目的地へたどり着く。

 小学校へも入学しない幼児が、親と別々に目的地に向かい、早く到着する場合がある。親の常識より、子供の遊び慣れた智恵が、庭を横切り、垣根破れを潜って早さで勝つ。

 知識は多いほど、気持ちが豊かになれる。

しかし、毎日の生活や行動は知恵なのである。

at 00:00, houwa-sugano, ちょっといい話

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