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第9話 知識と智恵(1)

 戦後半世紀を過ぎた今、教育の現場では、教育基本法の見直しやら、教育のあり方、教師の資質に至る問題が提起され、文部省が音頭を取って、その方策が論じられている。

 現代日本の近代化と文明の発展は、文化、経済、科学等全てを含めて、教育のおかげだといい切ることに、誰も異論は挟むまい。

 しかし、反面において、心の荒廃が叫ばれ、さまざまな社会問題が惹起され、その起因は教育の歪みだともいわれている。

 その一番の要因は知識教育のみが先行し、智恵(慧)の学習が忘れられた結果である。

 「智恵」とは、般若と同義に用いられ、仏教が目指す重要な実践体系の究極である。

 知識は、極めて客観的であり、一元的かつ相対的で理論派であるのに対し、智恵は主観的で、多元的でかつ主体的実践派である。

 子育でも、「知識」まず膨大な書物を紐解いて、その目的と理論を把握した上で、更に充分なシュミレーションをして、乳を与え、その効果を確認する。

 一方「知恵」は、まず子供を掌に抱き、温もりと愛おしさを持って、よく観察し、その都度、状況によって対処し、結果は考えない。

 瞭然、マニュアル文化からは、人間的な個性は育たず、芳醇で豊かな人生も望めない。

 戦後の教育から、宗教が消えたこと即ち、「智恵」の学習が忘失され、実社会の中で学ぶ(まねる)こころが失われ、結果、社会問題が山積し、現代があるのだ。

at 00:00, houwa-sugano, ちょっといい話

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第8話 おかげさま(3)

 世界の宗教は数に限りは無いが、身近な宗教で対照的に言われるのは、やはり「仏教」と「キリスト教」であろう。どちらも会派はこれまた限りが無いくらいだが、二教の、その根本的教義によって立つべきことと、めざす心構えを、一言で述べろと言われれば、「慈悲」と「愛」になる。

 このことは、先刻誰も承知の事だが、甚だ雑なお方は、簡単に「慈悲も愛」も同じ、表裏一体のようなものだ、なんてことを言うことがあるが、絶対にそうではない。

 二つの宗教のスタンスが同じなら、同じ宗教になってしまうし、「慈悲」と「愛」が違うからこそ、教義が成り立つのである。

 これだけの字数で二教をいい表すことは不可能にちかいが、キリスト教における神は絶対神であって、原罪を負う人間は、神には成り得ないし、究極おそばに召されるのである。だから、「愛」の善行を為して、懺悔し、少しでも罪を軽く、お許し戴くのであろう。

 仏教における「慈悲」は、悟りをえるための、手立てであり、菩薩へむかう発心の表れである。即ち仏教は悟れば、成仏し、仏様に誰でも成れるのである。

 だから与えるだけの「愛」と、仏を目指す「慈悲」は根本的に異なり、他に向かう姿勢も、難儀な方に奉仕を「してやる」と、その方のお陰で「させていただく」の違いになる。

 「おかげさま」は慈悲の実践であり、この精神こそ、二十一世紀への提言である。

at 00:00, houwa-sugano, ちょっといい話

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第7話 おかげさま(2)

 1995年(平成7)年は、日本におけるボランティア元年という方がいる。

 あの恐ろしくも痛ましい、阪神大地震災害の起こった年である。あの日を境に、全国より被災地に対する援助の手がさしのべられ、たくさんの方々が現地へ駆けつけ、現在もなお、奉仕活動を続けている方もいらっしゃる。

 それを裏付けるように、その後起こった災害へは、いち早く救済のために、身を呈して、多くの方が奉仕活動をなさった。

 その素晴らしい活躍を非難する気持ちは毛頭ないが、ボランティアという奉仕が国外からもたらされて、日本に定着した活動ように思われていることに、異議を唱えたい。

 キリスト圏において、ボランティアやホスピスなどの救済や医療活動が確立するのは、実に1800年代の後半から、二十世紀初頭の事で、開教後もずっと後で、そんなに歴史はないと認識しているが、「愛」の行為には奉仕という意味合いはあるが、その行為が奉仕者に撥ねかえって、奉仕者自身を向上させ、神格への手立ての証しと考えが至るのは、前述の如くずっと後なのである。

 一方仏教では、「慈悲」のなかには、まず奉仕があり、その対象者の「おかげ」で仏に至る、菩薩の道(成仏)が拓けるのである。即ち、「慈悲」は、させて戴くという、見返りを考えない「ボランティア」である。

 「おかげさま」を日常とする日本は、ずっと昔から「ボランティア」の国なのである。

at 00:00, houwa-sugano, ちょっといい話

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第6話 おかげさま(1)

 お釈迦様によって説かれた仏教のうち、殊にシルクロードを渡り中国・朝鮮半島を経て、日本にもたらされた北伝仏教は、大乗仏教と称され、大きく花開き、その国の生活そのままが仏教的な教義に結び付くという、その国の民族性となって、定着し展開した。

 例えば、「慈悲」は「南無(帰依する)」に変化し、「おかげさま」として、和製の言葉としても、実践行としても定着した。

 「おかげさま」という言葉は、日常茶飯事に耳にし、誰もが何げなく使っているが、日本に仏教がもたらされて以後、この言葉ほど、仏教思想が定着し、完全に消化され、そして純日本的に完成したものはないと思う。

 「おかげさま」は自分一人では生きられない。必ず自分以外の他によって、生かされていることに感謝し、更に他の存在そのものが、自分の価値観を向上し、人間性を高めていることに気づき、「おかげ」であることに、敬称の「さま」も付けて尊ぶのである。

 仮に介護を受ける老人がいる。その介護に携わる人は、この老人が自分の前にいる「おかげ」で、介護という尊い行為ができるわけで、「介護させていただく」という謙虚なこころが自然と芽生える。

 この「させていたただく」行為の積み重ねが、菩薩道を歩くことにつながり、仏への完成が約束されるのである。

 だから「おかげさま」こそ、仏教の主張「慈悲」なのである。

at 00:00, houwa-sugano, ちょっといい話

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