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2007.05.30 Wednesday
第5話 こころの洗濯
お寺や神社で賽銭箱に向かって、コインを投げ入れ、思いつくだけの願い事をしている人がいる。あれは本当に効き目があって、願い事も叶うのだろうか?
チャリンと一個投げ入れて、すぐに願いが叶うとしたら、本当の所安すぎるし、本尊様も真剣に聴きゃしまい。
じゃァ、なぜ仏様を拝むのだろうか。
私達は格別に汚れていなくとも、毎朝きまって昨日の汚れ物を洗濯機に入れ、部屋に掃除機をかけ、庭の落ち葉を箒で掃く。同じように心も、一日の汚れをきれいに洗い落とす必要があるのではないだろうか。
「こころ」の汚れはどうしたら、きれいに落とすことができるのか。
人間には三毒「貪・瞋・痴」はあるという。自分のことばっかり考えたり、ささいな事に腹を立てたり、つまらないことにくよくよしたりする事をいう。
この三毒は、一度犯せば、ずっと澱のように心の底に汚れとして溜まる。溜まった汚れは、どこかで浄化し清めなければならない。その浄化作用が、寺参りやお仏壇で、仏様に掌を合わせて拝む事なのです。
昨日、吝薔(ケチったり)、怒ったり、愚かさで心を汚した者は、朝仏様を拝みなさい。
仏様に掌を合わせて拝めば、たちどころに浄化され、清々しい気持ちになる。
「こころ」が洗われるんです。
「仏壇(賽銭箱)は、心を洗うランドリ」なんです。
チャリンと一個投げ入れて、すぐに願いが叶うとしたら、本当の所安すぎるし、本尊様も真剣に聴きゃしまい。
じゃァ、なぜ仏様を拝むのだろうか。
私達は格別に汚れていなくとも、毎朝きまって昨日の汚れ物を洗濯機に入れ、部屋に掃除機をかけ、庭の落ち葉を箒で掃く。同じように心も、一日の汚れをきれいに洗い落とす必要があるのではないだろうか。
「こころ」の汚れはどうしたら、きれいに落とすことができるのか。
人間には三毒「貪・瞋・痴」はあるという。自分のことばっかり考えたり、ささいな事に腹を立てたり、つまらないことにくよくよしたりする事をいう。
この三毒は、一度犯せば、ずっと澱のように心の底に汚れとして溜まる。溜まった汚れは、どこかで浄化し清めなければならない。その浄化作用が、寺参りやお仏壇で、仏様に掌を合わせて拝む事なのです。
昨日、吝薔(ケチったり)、怒ったり、愚かさで心を汚した者は、朝仏様を拝みなさい。
仏様に掌を合わせて拝めば、たちどころに浄化され、清々しい気持ちになる。
「こころ」が洗われるんです。
「仏壇(賽銭箱)は、心を洗うランドリ」なんです。
at 00:00, houwa-sugano, ちょっといい話
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2007.05.23 Wednesday
第4話 寿命
ホテルの名フロントマンとは、いかに空部屋をなくすかにあるという。だから、キャパシティ100室のホテルでは、予めキャンセルが生じるのを予想して、105室とか107室の予約を受けて、当日読みどおり5〜7人の取り消しがあり、100室が一室の無駄も無く、満室となるようにしなければならない。
その日一室でも空部屋がでれば、生涯売り残しとして記録されるという厳しさである。
一日々々に売り残せない、また過剰に予約も取れない。こんな緊張と非情の商売も、あまり例をみまい。
それに比べると、毎日は何と長閑かで、退屈な一日であろうか。
今日という日は、特段昨日と変わりはない。朝起きて夜寝るまで、仕事も家庭生活も変化はなく、精々誘われてたまに一杯やるくらいが変化である。漫然と一日が過ぎても、必ず朝はやってくる。
今日一日・一時間を無駄にはできないなんて悲壮感はないし、短い生涯の一日を、売り残してしまったなんて感覚はない。
「寿命」という言葉がある。「平均寿命」なんて語感から、命の長短をいうと思われているが、長生きするから「寿命」ではない。
その命は短くとも、生きがいをもって、意義深い、質の高い生活を送ることこそ「寿命」である。今、一分一秒も無駄なく、生き抜きたいと願う方もいる。
そんな方に送る言葉こそ、輝く命、「寿命」であろう。
その日一室でも空部屋がでれば、生涯売り残しとして記録されるという厳しさである。
一日々々に売り残せない、また過剰に予約も取れない。こんな緊張と非情の商売も、あまり例をみまい。
それに比べると、毎日は何と長閑かで、退屈な一日であろうか。
今日という日は、特段昨日と変わりはない。朝起きて夜寝るまで、仕事も家庭生活も変化はなく、精々誘われてたまに一杯やるくらいが変化である。漫然と一日が過ぎても、必ず朝はやってくる。
今日一日・一時間を無駄にはできないなんて悲壮感はないし、短い生涯の一日を、売り残してしまったなんて感覚はない。
「寿命」という言葉がある。「平均寿命」なんて語感から、命の長短をいうと思われているが、長生きするから「寿命」ではない。
その命は短くとも、生きがいをもって、意義深い、質の高い生活を送ることこそ「寿命」である。今、一分一秒も無駄なく、生き抜きたいと願う方もいる。
そんな方に送る言葉こそ、輝く命、「寿命」であろう。
at 00:00, houwa-sugano, ちょっといい話
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2007.05.16 Wednesday
第3話 二者択一
1997(平成9年)7月に公布され、その年の10月16日に施行された「臓器の移植に関する法律」は、人間の死を法律で定めたことで多くの議論を呼び、現在も脳死の判定基準や、臓器の提供者本人の意思確認ということに、納得できない倫理の不徹底さへの疑問を、投げかける者も多い。私もその一人ではあるが、違った見解ももっている。
このごろの日本は変である。
それは「二者択一」という、マークシート方式のままの、「良いか悪いか」「認めるか認めないか」「するかしないか」のような、予め設定された答えから選んで判断する、客観的な考え方が主流であるということである。
入学試験や統計調査で、その集計の至便を図るために取り入れられたものが、今日では身近な事にも及んでいる。しかし、試験や統計のように、学力を試したり、大勢の平均を知る場合はよいが、「いのち」に拘わる大事は、さまざまな選択肢から、自分だけの判断があるべきではないだろうか。
人は十人いれば十の、百人には百の、千人には千のさまざまな個々の「いのち」があり、「死」もある。だから、癌の告知や脳死や臓器移植の認知を、二者択一で判断してはならないし、法律で決めることもない。
自分の「いのち」は、自分自身のもの。
他によって左右されることもない。
生涯を決定する大事に、自分を知り、自身で判断する覚悟を持ちたいものである。
このごろの日本は変である。
それは「二者択一」という、マークシート方式のままの、「良いか悪いか」「認めるか認めないか」「するかしないか」のような、予め設定された答えから選んで判断する、客観的な考え方が主流であるということである。
入学試験や統計調査で、その集計の至便を図るために取り入れられたものが、今日では身近な事にも及んでいる。しかし、試験や統計のように、学力を試したり、大勢の平均を知る場合はよいが、「いのち」に拘わる大事は、さまざまな選択肢から、自分だけの判断があるべきではないだろうか。
人は十人いれば十の、百人には百の、千人には千のさまざまな個々の「いのち」があり、「死」もある。だから、癌の告知や脳死や臓器移植の認知を、二者択一で判断してはならないし、法律で決めることもない。
自分の「いのち」は、自分自身のもの。
他によって左右されることもない。
生涯を決定する大事に、自分を知り、自身で判断する覚悟を持ちたいものである。
at 00:00, houwa-sugano, ちょっといい話
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2007.05.09 Wednesday
第2話 おもいやり(2)
かたわらの小さな漢字辞典を取って、何げなく「おもう」という言葉を引いてみた。
あるある、「思・念・惟・想・意・憶・懐・情」
これみんな「おもう」という事で、大きな辞書を開けばもっとあるに違いない。
これには少なからず驚かされ、うっかり使ってきた言葉の大事さを、しみじみと感じた。
「思」は「思案・思考・思想・思慮」― 心におもんばかるの義
「念」は「念願・念書・念慮」で― 常に思い、心にかける―こと
「惟」は「惟々・惟思」― ひろくおもうこと
「想」は「想思・想起・想憶」― こいねがうおもい
「意」は― こころばせ、考え、おもむき―で「意気・意見・意思」
「憶」はきおくするの義「憶念・記憶・追憶」
「懐」は― なつかしむ、心にいだく・しのぶ・いたむ「懐古・懐中・懐慕」のこと。
そういえば「情人(おもいびと)」なんて言葉もある。
外国語には一つの単語で、さまざまな心の動きの微妙さと、その意味の違いを表現することはできないと思うが、日本語の「おもい」にはその一言に、とても複雑で、奥深く、気配りや、いたわり、通いあう心、加えて情愛と値千金の価値がある。
現代は自分が「おもわない」から、「おもわれていない」と信じている事がおおい。
苦しさ、つらさ、悲しみ、泣きたい時。
楽しさ、うれしさ、喜び、微笑みの時。
いつも傍らに「おもい合う」方が居てくれたら、なんて幸せだろう。
あるある、「思・念・惟・想・意・憶・懐・情」
これみんな「おもう」という事で、大きな辞書を開けばもっとあるに違いない。
これには少なからず驚かされ、うっかり使ってきた言葉の大事さを、しみじみと感じた。
「思」は「思案・思考・思想・思慮」― 心におもんばかるの義
「念」は「念願・念書・念慮」で― 常に思い、心にかける―こと
「惟」は「惟々・惟思」― ひろくおもうこと
「想」は「想思・想起・想憶」― こいねがうおもい
「意」は― こころばせ、考え、おもむき―で「意気・意見・意思」
「憶」はきおくするの義「憶念・記憶・追憶」
「懐」は― なつかしむ、心にいだく・しのぶ・いたむ「懐古・懐中・懐慕」のこと。
そういえば「情人(おもいびと)」なんて言葉もある。
外国語には一つの単語で、さまざまな心の動きの微妙さと、その意味の違いを表現することはできないと思うが、日本語の「おもい」にはその一言に、とても複雑で、奥深く、気配りや、いたわり、通いあう心、加えて情愛と値千金の価値がある。
現代は自分が「おもわない」から、「おもわれていない」と信じている事がおおい。
苦しさ、つらさ、悲しみ、泣きたい時。
楽しさ、うれしさ、喜び、微笑みの時。
いつも傍らに「おもい合う」方が居てくれたら、なんて幸せだろう。
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2007.05.02 Wednesday
第1話 おもいやり(1)
私は八人兄姉の末っ子である。過日、老境著しい兄姉と揃って温泉旅行に出かけた。
興に乗り「何がしたかった?」の問いに、間を置かず、異口同音に「一人暮らしッ」の答えがかえってきた。
そういえば、朝から晩まで、夜さえ一人ではなかった。日常茶飯事の通り、「ご飯よッ」の声に、素早くお膳に就く事から始まり、遊びも、おふろも一緒、夜も布団に二人ずつ納まって寝た。テレビだって一緒に観たから、チャンネル争いなんて、その頃の社会問題も誘発した。
見事に、一日中、一年中みんな一緒の生活の中で育った。
それは私の家だけの事情かというと、そうではない。日本国中が当たり前の生活様式であって、貧しいとか、悲惨という問題ではなく、ごく普通の環境がこれであった。
この常に皆一緒の生活は、実は重要な心を育む精神道場であった気がしてならない。
一緒ということは、自分の事だけを考えるのではなく、我慢もするし、相手にも優しい心も配る。ここに、他を思い、通い合う、いたわりの気配りの心が培われるのだ。
古人や先輩は、生活が貧しくとも、不自由でも、見事に毎日の生活の中に「共生」をさせ、こころの修養を育ませて来た。
新世紀は、無意識の気配りや、いたわり、「おもいやり」を、再度根付かせて、生かし生かされ生きたいものである。
興に乗り「何がしたかった?」の問いに、間を置かず、異口同音に「一人暮らしッ」の答えがかえってきた。
そういえば、朝から晩まで、夜さえ一人ではなかった。日常茶飯事の通り、「ご飯よッ」の声に、素早くお膳に就く事から始まり、遊びも、おふろも一緒、夜も布団に二人ずつ納まって寝た。テレビだって一緒に観たから、チャンネル争いなんて、その頃の社会問題も誘発した。
見事に、一日中、一年中みんな一緒の生活の中で育った。
それは私の家だけの事情かというと、そうではない。日本国中が当たり前の生活様式であって、貧しいとか、悲惨という問題ではなく、ごく普通の環境がこれであった。
この常に皆一緒の生活は、実は重要な心を育む精神道場であった気がしてならない。
一緒ということは、自分の事だけを考えるのではなく、我慢もするし、相手にも優しい心も配る。ここに、他を思い、通い合う、いたわりの気配りの心が培われるのだ。
古人や先輩は、生活が貧しくとも、不自由でも、見事に毎日の生活の中に「共生」をさせ、こころの修養を育ませて来た。
新世紀は、無意識の気配りや、いたわり、「おもいやり」を、再度根付かせて、生かし生かされ生きたいものである。
at 16:04, houwa-sugano, ちょっといい話
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